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マウスを動かす手が痛む。包帯が巻かれた左手。 2人で出かける必要はない、と思った。 難しい考えがあったわけじゃない。 ただただ嫌だった。 そう、だってあたしは彼が嫌いだから。 簡単なこと。 強引に引っ張られた手を振り払った。 「どうしたの? 行こうよ」 満面の笑顔を浮かべて言った。肌に粟が立つ。
「……い」 「何?」 「嫌い」 「え?」 「嫌いだって言ったの」 別れた理由なんて、ごくシンプルだ。 現代の恋愛で別れを招く大方の理由。 「あなたが嫌いなの。一緒にいたくないの。触られるのも嫌。話すのも嫌」 「え…?」 「何度でも言うよ。あなたのことが好きじゃなくなったから別れたの」 自分がいい子になる必要性なんてなかったはずだ。 あたしは悪くない。誰に対する言い訳? 何てことはない。あたし自身に対する言い訳だ
逆上した彼は、どこから取り出したのか、あたしにカッターを向けた。 太陽の光に当たって、カッターの刃が光った。 残酷な光。 でも想像していたよりも、その光はずっと安っぽいものだった。 カッターだったからかもしれない。 でも、茶番のようにバカバカしかった、あたしと彼の恋愛、そしてあがいていた今までの関係を現わしているようにも思えた。 あたしは、凶器を向けられていたのに、驚くほど冷静だった。
その場にいたのはあたしたちだけじゃあない。 通行人もいた。 切りつけられ、手に痛みが走ったところで彼は周りにいた通りがかった男性たちに抑えつけられた。そして吐き出すようにして、こう言った。 「この女が悪いんだ!!」 陳腐な台詞。 指先から落ちる血の滴。 道に小さな染みを作った。
警察であたしは、事故だったと言い張った。戸惑う彼を横目に、痴話喧嘩です、と鼻で笑いながら言った。 「傷害事件になったら困るでしょう?」 警察でカタカタと手を震わせている彼に向かってあたしは言った。 かわいそうな人。 ただそう思っただけだった。 もう怖くはなかった。
思い出した。付き合っていたときに、ずっとあたしの中にあった、彼に対する感情。 湧いてきたのは、憐れみと嘲笑。 自分の欲求のままに動いて。でもそれはあたしが自分よりも弱い人間だと思っていたから。 強い者には屈伏する。 だからきっと、あたしの恋人には何もできなかった。 負けるのが分かっていたから。
「これは、借りだから」 「借り…?」 「もうあたしには近づかないで」 ああ、なんてあっけない幕切れだろう。 もっと早く、こう伝えればよかったんだ。 手の痛みをこらえながらも、あたしは本当に久しぶりにゆっくりと眠った。
ブログも消えた。 あたしを追う視線も消えた。 人ごみの中で何かに怯えることもない。 優しい恋人と、これからは、ゆっくりと暮らせるんだ。 彼は、最後に一言だけ、ブログを更新していた。 その記事はあたしが読む前に、ブログ自体が消去されてしまった。
『もう、さよならできたと思った?』
知らないことは幸せなのか。不幸なのか。 あたしには、分からない。